世界料理学会in Aritaで語られたこと① 器(うつわ)編 は→こちら
つづき。
今回の料理学会では、器を作る側からのアプローチと、料理を作る側からのアプローチの発表が行われた。
この後編②では主に、料理を作る側の人からのことばをまとめてみた。
器と料理の黄金比(小岸明寛 オーグードゥジュールメルヴェイユ博多)
料理の盛り付け方には美しく見えるセオリーがある。
重要なのは黄金比(1対1.618…)の比率で食材を並べること。
フィナボッチ数列を正方形に並べてできる曲線(→参考)は自然界の曲線に多く見られるもの。小岸さんは、美しい盛り付けにするために、皿のなかでこの曲線をいつも意識して食材を並べているのだそうだ。
人の視線の移動は左上→右上→左下→右下の順なので、皿の左上にインパクトのあるものを盛るとよい。
器のデザインにも、その黄金比とフィナボッチ数列の曲線は応用できる。
世界に誇りし日本料理 RyuGin History 2016(山本征治 日本料理 龍吟)
下関ふぐの調理、食文化について。
ふぐのさばき方は教科書通りにしない。
そのほうがおいしいから。
まずは常識を疑うことを考える。
器との向き合い方についての話も。
買った器は自分のものではなく作家のもの、しばらくの間、レンタル料を払って使わせてもらっているものだと思っている。
器は、人間の寿命よりはるかに長く生きるということを思い出させる言葉だ。
学会で流されたビデオは全編You Tubeで見られる。(36分)
日本料理 龍吟 ふぐ学会発表
One man’s trash,another man’s tresure(川手寛康 フロリレージュ)
誰かにとってのゴミは、他の誰かにとっては宝だ。
川手さんの発表は、「2100年にはレストランがなくなる」というショッキングな見出しから始まった。
世界人口は現在73億人。この人口増加率は、食材の増産だけではまかないきれない可能性が高い。そこで焦点になるのが、世界中で行われている食材の廃棄の見直しだ。
日本は、いま食品を世界で最も多く捨てている国の一つとのこと。
フランスでは、昨年からスーパーで食品の廃棄が禁止されたというニュースは記憶に新しい。
料理人は調理技術の向上だけではなく、その生き方も考えるべきではないかという提言だ。
有田焼のサスティナビリティについても言及があった。
有田は良質な陶土がふんだんに取れるため、現在は良い陶土だけを選んで相当量捨てているとのことで、今後数百年のスパンで産業を考えると、陶土のサスティナビリティも考えておくべきでは、という投げかけだった。
発表のなかでは、その投げかけに李荘窯の寺内さんが応え、これまで使われていなかった陶土で食器を作るというVTRも披露された。
世界料理学会の意義(高澤義明 TAKAZAWA)
高澤さんの愛猫ぶりこの写真や、徳永英明の替え歌熱唱をはさむなど肩の凝らないスタイルで世界の料理学会に参加することの意義の解説。料理学会に出ることによるメリットは計り知れないとのこと。
具体的には、
1.知識の共有
スペインのLo mejor de la Gastronomia、イタリアのIdentita Golose、メキシコのMesamerica等々、世界の料理界の動向が知れる。
2.友人の広がり
nomaのレネ・レゼピなど世界的に知られたシェフとの繋がりが得られる。
3.地元の見聞
地元の食材との出会うこと、伝統工芸品や生産者への訪問を通してその地への理解が深まる。
フランスのトレンドとARITAの可能性(須賀洋介 SUGALABO・佐藤伸一 Passage53・吉武広樹 Sola)
contaminata(混成)(徳吉洋二 Restaurant TOKUYOSHI・寺内信二 ARITA PLUS)
「フランスのトレンド~」は、須賀さん、佐藤さん、吉武さんという、それぞれフランスで店を持っている、あるいはシェフをしたことのある人ならではの、主にこれから海外に出よう、出たいという学生や若い料理人へ向けた座談会。
3人とも、海外で働くことについて、苦労よりは楽しさや意義の方が大きいという楽観的な意見だった。
日本人の常識が通じないことを念頭に置いて、楽天的に行く、相手を責めないことをモットーにすること。
フランスは人件費と税金が高くて、働いても働いても持っていかれる。
有田焼の使用については、仕入れ値が高く、税金も高い、器が破損したときのメンテナンスに時間がかかる(海外の商品、例えばベルナルドだとすぐに代わりの器が手に入る)など、国をまたぐことによる苦労は多いとのこと。
日本人の料理人がフランスに修業に行き始めたのは、遡ること40年ぐらい前の1970年代半ば。
その時代と今とを比べると、海外へ出やすいかどうかという点だけで見れば、航空券代などの障壁は大幅に下がっているので、フランスに修業に出たいと思っている人は「まず出ること」(吉武さん)というアドバイスもあった。
「contaminata(混成)」。
徳吉さんが、舞台にしつらえられたちゃぶ台で寺内さんとさしつさされつオーダー食器の打合せをするという、ユニークな設定の発表。
皿のサービスのしやすさを左右するリムや高台(こうだい)の高さなどについて、載せる料理のイメージと矛盾しないように、寺内さんが細部に突っ込みを入れていく。そこから、日本的なもの、イタリア的なものという話に繋がっていく。
日本人がイタリアでイタリアンのお店を開くとき、イタリア的なものと、日本的なものの混成が起こらざるを得なかった。そこに自分の立ち位置がある。
イタリア料理の本質は土で、日本料理の本質は水だと思っている。
徳吉さんの「今後は、イタリア料理、日本料理というジャンルが解体していき、誰々さんの料理、という個人名で料理が語られる時代になる」という予測は、海外で働く人の率直な感覚としてリアリティがあった。
海外との人間や情報の行き来がやりやすくなり、文化がクロスオーバーで「混成」しつつあるいま、「日本人がイタリアで作るイタリア料理とは何か」という話題は、有田焼とは何かという問題にも微妙に繋がっているようだった。
国ごとの文化が混成していくのが当たり前になると、オリジナリティのよりどころが求められるのだろう。
例えば、有田の陶石を人件費の安い海外へ運んで作った製品は有田焼と言えるのか。
座談会(1日目「料理人への挑戦」)では「それは(有田焼と)認めたくない」という発言があり、今の”中の人”の感覚としてはそうなのだなと納得した。
ただしこの感覚も、ひょっとすると15年後、20年後には変わっているかもしれない。
Las Herramientas Cómplices(共謀のためのツール)(アンドニ・ルイス・アドゥリス Mugaritz)
今回の発表で唯一の海外シェフ。
アンドニは、食器を以前から李荘窯で製作するなど、有田焼とのかかわりは深い。
アンドニの話は、料理をめぐる時間と記憶について、それから、再現不可能な一期一会の「レストランで食べる」という経験のなかで、作り手と食べ手が協力して作り上げていくもののかけがえのなさについてだ。
「作品」と呼ばれるものには必ず、目に見えない作り手の苦労や時間が積み重なっているものだとアンドニは言う。
それを感知するには、作り手による「時間の蓄積」を見せるしかけと、受け手のそれを読み取る感性がなければならない。
その仕組みは、料理にも器にも共通するものだ。
出来上がった美しい作品の陰には、苦労や失敗のプロセスが必ずある。それは料理でも器でも同じこと。
私の料理では、その時間の経過を食べる側がイメージできるようにしている。例えば料理に添えられた椿の葉は、アルカリに漬けて葉脈だけを残したもの。
この料理では、その葉が枯れるまでの時間の経過を、象徴的に表している。重要なのは、料理のマテリアルでなく歴史。
それを感じ取ってもらうためには、食べる側にも知識が必要だ。それを私たち(作る側)は提供する。そうして、作る人、食べる人双方がともにその場を作り上げていかなければならない。
アンドニの発表はさらに続く。
何を食べたかは忘れても、そのときに感じた感情は長く記憶に残る。
本当の旅は、記憶の中で行われるものだ。
Mugaritzで食べるものは料理でなく時間であり、象徴だということを思い起こさせる発表だった。
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学会が終わってから考えた。
アンドニが言う「共謀」が指しているものは具体的に何だったのだろう。
直接の意味としては、料理を仲立ちとして、そのとき限りの記憶を作り上げるための、「料理を作る側」と「食べる側」の「共謀」というような意味になるのだと思う。
しかし、「共謀」ということばは実は、それだけの意味にはとどまらず、今回の学会全体の本質を表していたのではなかったか。
共謀とはここでは「誰かと誰かが関わりあって何かひとつのものを創り上げようとする行為」のことだとするならば、そのことばを、今はもう少し深読みしてもよいのではないかと思う。
つまり「共謀」が意味するものは、今回の学会でいえば、発表する人間と聞いている人間のあいだに生まれた一度限りの関係性のことであり、また、窯元の職人と料理人とのことであり、そしてもちろん、今回のテーマである器と料理のことでもあるのだと。
2日間の日程お疲れ様でした。次は9月5日(月)・6日(火)の函館で!